3年間、ずっと損してたかもしれない。
定年後も働き続けているAさん(67歳)は、2026年4月の給与明細を見て気づいた。引かれていたはずの年金カット分が、なくなっている。月の給与が35万円、年金が月12万円。合計47万円だったのに、これまで基準額の51万円を下回っていたはずなのに——いや、待て。計算が違っていた。
「在職老齢年金」という制度を、名前だけは知っていても中身をちゃんと理解している人は多くない。「働くと年金が減らされる」という噂だけが一人歩きして、損をしている人も、逆に誤解して働き方を変えてしまっている人もいる。
2026年4月から、この制度が大きく変わった。支給停止の基準額が月51万円から月65万円に引き上げられた。これによって、約20万人が新たに年金を全額受け取れるようになる。自分がその20万人に入るかどうか、確認する価値は十分にある。
そもそも「在職老齢年金」って何?知らなかったら損する仕組み
まず制度の基本から整理する。
老齢厚生年金は、厚生年金に加入して働いた期間に応じてもらえる年金だ。65歳になれば原則として受給が始まる。ここまでは知っている人も多い。
問題は「受け取りながら、まだ働いている」ケースだ。
在職老齢年金制度とは、働きながら老齢厚生年金を受け取っている人の「賃金+年金」の合計が一定額を超えると、超えた分の半額が年金から差し引かれるという仕組みだ。正確に言えば、支給停止されるのは老齢厚生年金のうちの一部(報酬比例部分)であって、老齢基礎年金(いわゆる国民年金部分)は対象外になる。
カットされる計算式はこうなる。
支給停止額(月額)=(老齢厚生年金の月額+総報酬月額相当額-基準額)×1/2
「総報酬月額相当額」というのは、月給+直近1年間の賞与を12で割った額のこと。ボーナスも含めて計算されるから、月の手取りだけで判断すると計算が狂う。
これが2025年度まで51万円だった基準額が、2026年度からは65万円に変わった。差額は14万円。この14万円の壁が、多くのシニア就労者の働き方を変える。マジか、と思った人——そう、マジだ。
改正前後を比べる:月51万円と月65万円の差は何を意味するか
数字で見てみよう。
たとえば月給40万円、老齢厚生年金12万円(月額)のケース。賞与はなしとして、総報酬月額相当額は40万円。
ケース①:月給40万円+年金12万円の場合
2025年度(基準額51万円):
- 合計:40万円+12万円=52万円
- 基準額超過分:52万円-51万円=1万円
- 支給停止額:1万円×1/2=5,000円
- 実際の年金受取額:12万円-5,000円=11万5,000円
2026年度(基準額65万円):
- 合計:40万円+12万円=52万円
- 65万円以下のため支給停止なし
- 実際の年金受取額:12万円(全額)
月5,000円の差。1年で6万円。3年続けていれば18万円になる。
ケース②:月給45万円+年金15万円の場合
2025年度:
- 合計:45万円+15万円=60万円
- 超過分:60万円-51万円=9万円
- 支給停止額:9万円×1/2=4万5,000円カット
- 年金受取額:15万円-4万5,000円=10万5,000円
2026年度:
- 合計:60万円。65万円以下のため停止なし
- 年金受取額:15万円(全額)
年間で54万円の差。これは笑えない金額だ。
ちなみに、支給停止が「完全にゼロ」になるのは基準額以下の場合。基準額を超えても全額カットにはならない。超過分の半額だけが止まる、という点は誤解されやすいので押さえておきたい。
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約20万人が「新たに満額受給」できる理由
厚生労働省の試算によると、今回の基準額引き上げによって約20万人が新たに年金を全額受け取れるようになる。
この20万人というのは、2025年度までは「賃金+年金が51万円超だったために一部カットされていたが、2026年度からは65万円以下に収まるため停止がなくなる」人たちだ。賃金+年金の合計が51万〜65万円の間に収まっていた人が一気に恩恵を受ける。
一方、賃金+年金が65万円を超える場合は、2026年度も引き続き一部カットが続く。ただし基準が14万円上がった分、カット額は減る。
政府広報によると、今回の改正の恩恵を最も受けるのは「月給が30〜50万円台で、年金が10〜15万円程度の人」つまり再雇用や非正規で働くシニア世代の多くが該当する。
…いや、これはちょっと待って。改正前から満額もらえていた人(合計51万円以下)には特に変化はない。恩恵があるのはあくまで「51万〜65万円のゾーン」と「65万円超で支給停止が減る人」に限られる。そこを混同しないよう注意が必要だ。
なぜ今、基準額を引き上げたのか:改正の背景
「なんで今まで51万円だったのか」というのも、知っておくと制度の理解が深まる。
在職老齢年金制度は、もともと「現役世代との公平性」を保つための仕組みだった。高い賃金をもらいながら年金も全額受け取るのは不公平、という考え方だ。現役世代が保険料を払って支えている年金財政の観点から、高所得の受給者には一定の負担を求める——という発想が根底にある。
ただ、時代が変わった。
日本の少子高齢化は想定以上のペースで進んでいる。労働力人口の減少が深刻で、企業は人手不足に悩む。そこに「年金が減るから働き方を抑えよう」と考えるシニアが出てくると、経済全体の損失になる。
内閣府の世論調査(2023年度)では、60代の約5割が「66歳以上でも働きたい・働いている」と回答。同調査では、60代後半の3割以上が「年金額が減らないよう労働時間を調整している」とも答えている。要するに、制度が高齢者の就労に対してブレーキをかけていたわけだ。
「シニアの働き損」を解消することで、人手不足緩和と税収・社会保険料収入の確保を両立させる——それが今回の改正の本音でもある。
65歳未満と65歳以上で何が違うのか
ここは少し整理が必要な部分だ。
在職老齢年金制度は、かつては年齢によって基準額が異なっていた。60〜64歳の「低在老」と65歳以上の「高在老」で別々のルールが存在していた時代がある。
2022年4月の改正で、この区別は事実上統一された。60〜64歳の基準額が65歳以上と同じ額に揃えられたのだ(当時の基準額は月47万円)。
2026年4月からは65万円に統一。つまり現在は60歳以上の在職中の年金受給者はすべて同じルールで計算される。ただし実際には、60〜64歳でもらえる「特別支給の老齢厚生年金」は、生年月日によって支給対象になる人とならない人がいるため、そこは個別に確認が必要だ。
また、在職老齢年金の対象になるのは「厚生年金保険に加入しながら働いている人」に限られる。自営業やフリーランスで国民年金だけ加入している場合は対象外だ。厚生年金に加入しているということは、週20時間以上の雇用(一定規模以下の企業では条件が異なる)が目安になる。
「廃止」の議論はどうなったのか
ネットで「在職老齢年金 廃止」と検索すると、けっこうな数の記事がヒットする。廃止になるんじゃないの?という疑問を持っている人は多い。
結論から言うと、今回の改正は廃止ではなく「基準額の引き上げ」にとどまった。
廃止の議論自体はずっと続いている。経団連は2024年9月に「将来的に廃止すべきだ」という見解を公表し、「2030年改正で廃止に向けて本格的に検討すべき」と明記した。財界からは「高齢者の就労意欲を損なうこの制度は撤廃するべき」という声が根強い。
ではなぜ今回は廃止にならなかったのか。
財政問題だ。公的年金の財政検証によると、在職老齢年金を廃止した場合、年金受給者への給付額は2030年度だけで5,200億円増加する。2040年度には6,400億円。これだけの財源をどこから確保するのか、明確な答えが出ていない。廃止すると高所得シニアが得をするという「高所得者優遇」批判も根強く、2025年の法改正では完全廃止は見送られた。
今後については、2030年の次期年金制度改正で再度議論される見通しだ。廃止になる可能性はゼロではないが、財源問題が解決しない限り実現は難しいのが実態だ。
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手続きは必要?申請しないともらえないのか
「知らなかったら損してた」という声が一番多いのがこの部分だ。
結論:特別な手続きは不要。
2026年4月から基準額が65万円になったことで年金の支給停止が解除・縮小される人については、日本年金機構が自動的に再計算して改定後の金額を振り込んでくれる。自分で申請しなくていい。
ただし、タイミングに注意が必要だ。年金は2ヶ月に1回後払いで振り込まれる。2026年4月・5月分は6月の振込から新しい基準が反映される。4月になったからすぐ変わるわけではなく、6月に「あ、増えてる」と気づく流れになる。
「そもそも自分の年金がいくらカットされているのか知らない」という人は、ねんきんネット(www.nenkin.go.jp)にログインして確認できる。マイナンバーカードがあればすぐ使える。65歳になったタイミングで年金請求書を提出していない人は、まずそちらを優先的に処理する必要がある。
働くシニアのリアル:制度改正で何が変わるか
制度の話だけ書いていても、実感が湧かないかもしれない。
冒頭で紹介したAさんのような「定年後も働き続けているシニア」が、この改正でどう動くか。
これまでよくあったのは「年金が減らないよう、残業を断る」「フルタイムから週4日に切り替える」というパターンだ。合計が51万円を超えないよう、意図的に収入を抑えていた人が一定数いた。「51万円の壁」と呼ばれていた現象だ。
この壁が65万円に上がったことで、月収が65万円以下の範囲なら気にせず働けるようになる。「65万円の壁」に引っかかる人は、そもそもかなりの高収入層だ。
企業側にとっても意味がある。再雇用した60代社員が「年金が減るから残業できない」と断らなくなれば、戦力として計算しやすくなる。特に製造業・医療・介護・建設などの人手不足業界では、シニア人材の活用が経営課題になっている。
内閣府の調査では60代後半の働く意欲は高い。でも「制度が複雑でよくわからない」「結局いくら損してるかわからない」という声が多かった。今回の改正で基準が一本化・引き上げされたことで、少なくとも「51万円超えたら計算して…」という煩わしさは減る。
今後さらに廃止になる可能性はあるか
ここが気になる人も多いと思う。
可能性はある、が、すぐではない——というのが現実的な見方だ。
経団連は2030年の次期改正で廃止を本格検討するよう求めている。ただ、廃止には年間5,000〜6,000億円規模の給付増が伴う。社会保険料の引き上げか、給付水準の調整か、他の財源確保か。これが決まらない限り廃止は難しい。
連合(労働組合の全国組織)は廃止には慎重な立場だ。「廃止すると高所得者がより多く得をする不公平な制度になる」という理由からだ。政府内でも意見が分かれており、2030年改正でも「廃止」より「さらなる基準額引き上げ」という着地になる可能性は十分ある。
いずれにせよ、「廃止になるかも」を期待して今の働き方の判断を保留するのはもったいない。今の制度を前提に、自分の収入と年金の合計を計算してみることが先決だ。
まず自分で計算してみよう
最後に、自分が該当するかどうかを確認するための手順をまとめる。
4ステップで自分の受取額を確認
ステップ1:月の年金額を確認
ねんきんネットまたは年金証書で「老齢厚生年金の月額」を確認する。
ステップ2:総報酬月額相当額を計算
月給+(直近1年のボーナス合計÷12)
ステップ3:合計を出す
ステップ1の年金月額+ステップ2の総報酬月額相当額
ステップ4:基準額65万円と比較
65万円以下 → 停止なし、全額受給
65万円超 → 超過分の半額が停止(超過分×1/2がカット)
計算してみて「あれ、65万円全然超えてないじゃないか」という人は、2026年4月から何も変わらず全額もらえている状態だということだ。逆に「今まで一部カットされてたのか」と気づいた人は、今後の働き方の参考にしてほしい。
3年間損してたかもしれない——と最初に書いた。でも今から把握すれば、これからは損しない。それだけは確かだ。


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