ハンタウイルスって、聞いたことあった?
正直、僕はほとんど知らなかった。名前だけは何かのニュースで聞いた気がする、くらいの認識だった。「エボラ」とか「マールブルグ」とかと並べて語られる怖いウイルスの一種、くらいのぼんやりとしたイメージしかなかった。
それが2026年5月2日、WHO(世界保健機関)の発表で突然リアルになった。南極からアフリカへ向かうクルーズ船「MV Hondius」で集団感染が起き、3人が死んだ。治療法はない。ワクチンもない。致死率は40〜50%。
知らなかった。
3人が死んだ。
しかも、日本人が1名乗船していたと外務省が確認している。感染しているかどうかはまだわかっていないが、この話は「海の向こうの誰かの話」では済まない気がした。だから調べた。
ハンタウイルス肺症候群とは何か──コロナと何が違うのか
まずここから整理する。ハンタウイルス肺症候群(HPS:Hantavirus Pulmonary Syndrome)は、ハンタウイルスに感染することで発症する重篤な呼吸器疾患だ。1993年にアメリカのニューメキシコ州で初めて大規模アウトブレイクが確認された。それ以前から散発的な事例はあったとされているが、病原体の正体が特定されたのは90年代に入ってからのこと。
病原体はハンタウイルス科に属するRNAウイルスで、複数の型が知られている。北米で主に問題になるのは「シン・ノンブレウイルス」、南米では「アンデスウイルス」など。今回のクルーズ船で確認されたウイルスの型についてWHOはまだ詳細を公表していないが、南極・南米への航路という点からアンデスウイルスの可能性も指摘されている。
アジアでは少し違う系統のハンタウイルスが問題になってきた歴史がある。「漢タン熱(腎症候性出血熱)」と呼ばれる疾患で、韓国や中国では今も散発的に感染報告がある。日本ではほぼ報告がないが、関係がないわけではない。
「人から人へうつらない」──これがコロナとの最大の違い
コロナウイルスとハンタウイルスの最大の違いは何かと聞かれたら、迷わずこれを挙げる。
ハンタウイルスは、基本的に人から人へはうつらない。
コロナ禍のときに僕たちが恐れたのは、感染者が増えると感染者が増える、というループだった。人から人へと飛沫や接触でうつるから、電車に乗るのも怖く、会食もできなかった。でもハンタウイルスは違う。感染源はほぼ例外なく「げっ歯類(ネズミ・リス等)の排泄物」だ。
一つだけ例外がある。南米で流行するアンデスウイルスについては、人から人への感染が報告されている。これは世界的にも珍しい特性で、ハンタウイルスの中でもアンデスウイルスだけが持つ性質とされている。ただそれでも、新型コロナのように広域に拡大するパターンとは根本的に性質が異なる。
つまりコロナとの違いは単純だ。コロナは「感染者のそば」にいるだけでリスクがあった。ハンタウイルスは「ネズミの糞や尿に触れるか吸い込む」行動がなければ、基本的に感染しない。
だから今回のクルーズ船で乗客同士がうつし合っている可能性は低い。問題は、乗船前の南極上陸時に何らかの形で感染した可能性が高い、ということだ。
クルーズ船で何が起きたのか──MV Hondiusの集団感染の経緯
「MV Hondius」はオランダの探検クルーズ船で、南極・北極方面への遠征航路で知られる船だ。名前の由来はオランダの地図製作者ヨドゥクス・ホンディウス。なかなか渋い由来の船が、今回の感染の舞台になった。
この船が南極からアフリカへ向かう航路上で、乗客・乗員の一部にハンタウイルス感染が疑われる症状が相次いだ。WHOは2026年5月2日に状況を公式に報告した。確定2例、疑い5例、計7例。そのうち3名が死亡した。
怖い数字だ。
7人感染して3人死んだとしたら、致死率は約43%になる計算だ。コロナの致死率は変異株や時期によって大きく異なるが、オミクロン以降は0.1%台から数%程度に落ち着いていた。40%台というのは桁が違う。
WHOの見解では、今回の感染は「乗船前に南極に上陸した際に感染した可能性が高い」としている。つまりクルーズ船自体が感染源ではなく、南極の陸上で何らかのげっ歯類の排泄物に接触した可能性が疑われているわけだ。南極というと広大な氷の大陸をイメージするかもしれないが、実際には海岸沿いに上陸できる場所もあり、そこにはネズミに近い哺乳類が生息している。
日本人乗客1名が乗船していた事実
外務省が確認している。日本人乗客が1名、この船に乗っていた。
感染しているかどうかは、この記事を書いている時点では確定していない。潜伏期間が1週間から5週間(平均約2週間)あるため、帰国後も一定期間は経過観察が必要な状況だ。厚生労働省も当該者の健康状態について把握・確認を進めているとされている。
「知らない誰かの話」では、なかった。
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感染ルートはどこ?南極上陸とネズミの排泄物の関係
感染経路についてもう少し詳しく整理する。
ハンタウイルスの自然宿主はげっ歯類(ネズミ、リス、ハタネズミなど)だ。ウイルスはげっ歯類の体内で増殖し、尿・糞・唾液に排出される。人間が感染するルートは主に3つある。
①吸入感染:ネズミの糞や尿が乾燥してほこりになり、それを吸い込む。最も一般的な感染ルートとされる。古い倉庫や物置を掃除するとき、掃き掃除で舞い上がったほこりを吸い込む、という場面が典型例として挙げられる。
②接触感染:ネズミの排泄物や唾液に傷口が触れる。あるいは汚染された表面に触れた手で目や口を触る。
③咬傷:ネズミに咬まれる。頻度としては最も少ないとされる。
今回の南極上陸の場合、南極周辺の島々にはネズミや南米由来のげっ歯類が生息していることが知られている。観光客が上陸して地面を歩いたり、古い建物(廃棄された基地施設など)の中に入ったりする際に、ほこりとともにウイルスを吸い込んだ可能性が疑われている。
…でも、これは本当に日本と無関係なのか? 南極まで行かなくても、田舎の物置や畑仕事でも類似のリスクはある。日本国内の話は後半で整理する。
食品からは感染しないとされている。ネズミが触った食べ物を食べても感染するとは考えにくいが、絶対ではない。感染予防の基本は「ネズミの痕跡がある場所での作業」に注意することだ。特に春から夏、倉庫の清掃や農作業の時期には頭の片隅に置いておく価値がある。
症状と致死率──インフルエンザ・コロナと比べてどう違うか
ハンタウイルス肺症候群の恐ろしさは、最初の症状が「ありふれた風邪に似ている」点にある。
発症初期(潜伏期1〜5週間を経て):発熱、筋肉痛、頭痛、倦怠感。ここだけ切り取ると、インフルエンザとまったく見分けがつかない。医師でも「ちょっとした風邪だろう」と見誤る可能性がある。
ところが数日後、突然様相が変わる。
咳、息切れ、呼吸困難、肺に水が溜まる「肺水腫」が急激に進行する。そして循環不全から心原性ショックに至る。発症から数日で死に至るケースも珍しくない。
コロナの場合は「軽症→中等症→重症」という比較的段階的な進行があり、途中で医療介入のタイミングがあった。ハンタウイルス肺症候群は「普通の風邪→突然の重篤化」というジェットコースター的な経過をたどることが多い。これが致死率を高めている一因だ。
発症から急速に悪化するまでの経過
医療の現場で使われる「病期」の概念で整理すると、次のようになる。
前駆期(発症〜3〜5日):発熱、倦怠感、筋肉痛。インフルエンザと区別がつかない。鼻水や喉の痛みはほとんど出ない──ここが一つの見分けのポイント。上気道症状がないのに全身の筋肉が痛い場合、ハンタウイルスへの感染を疑う必要がある。
心肺期(4〜10日目):突然の咳と息切れ。肺水腫が進行し、血中酸素が急激に低下する。入院管理が必要なレベルになる。人工呼吸器が必要になるケースも多い。この時期の死亡率が最も高い。
回復期(生存者の場合):急激に回復する。心肺期を乗り越えられた場合、予後は比較的良好とされているが、後遺症として肺機能の低下が残る例もある。
インフルエンザの致死率が季節によって異なるものの0.1%以下の水準であるのに対し、ハンタウイルス肺症候群は10〜50%程度。コロナの流行初期(デルタ株以前)でも致死率は2〜3%程度だったから、文字通り桁が違う。
日本国内で感染が広がる可能性は?厚労省の見解と専門家の分析
結論を先に書く。
厚生労働省と国立健康危機管理研究機構(JIHS)は「国内で感染が拡大する可能性は極めて低い」としている。
理由は複数ある。まず、今回の感染源は南極上陸という特殊な状況下でのげっ歯類接触であり、日本国内で同様の状況が発生する可能性は極めて限られる。次に、ハンタウイルスは人から人への感染が(アンデスウイルスを除き)確認されていないため、帰国した感染者が国内で感染を広げるリスクは低い。
ただ、専門家の分析をもう少し丁寧に読むと、「ゼロリスクではない」という留保がついている。
一つは、アジア圏での「漢タン熱」(腎症候性出血熱)の存在だ。韓国や中国では、日本と同じような農村環境でハンタウイルスの一種(漢タンウイルス、ソウルウイルス等)に感染するケースが今も報告されている。日本では歴史的に感染報告がほぼないが、これはウイルスが存在しないからではなく、日本のネズミにウイルスを保有している個体が少ない・または生活スタイルの違いでリスクが下がっているからとする説もある。
もう一つ。気候変動の影響で、従来の分布域から動物の行動域が変化しているという話がある。ハンタウイルスを持つげっ歯類の分布が変わることで、これまでリスクが低かった地域にウイルスが持ち込まれる可能性がゼロとは言えない。
とはいえ、現時点で日本国内の一般市民がハンタウイルスに感染するリスクは極めて低い。パニックになる必要はない。ただ、南極・南米など流行地域への渡航後に発熱・筋肉痛の症状が出た場合は、渡航歴を必ず医師に伝えること──これだけは頭に入れておいてほしい。
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ハンタウイルスに有効なワクチン・治療薬はあるのか
これが、この感染症の最もつらい現実だ。
現時点で、ハンタウイルス肺症候群に対する承認された特効薬も、広く使えるワクチンも存在しない。
治療は「対症療法(支持療法)」のみとなる。具体的には、人工呼吸管理で呼吸を補助する、体外式膜型人工肺(ECMO)で心肺機能を補う、輸液で全身状態を安定させる、といった集中治療が行われる。どれも「ウイルスそのものをやっつける」治療ではなく、「体がウイルスと戦っている間、臓器機能を維持する」ための治療だ。
コロナの場合は比較的早期に複数の治療薬が開発・承認された。ワクチンも前例のないスピードで実用化された。これはコロナウイルスという既知のウイルスファミリーに対する基礎研究が蓄積されていたこと、世界的な緊急事態として膨大なリソースが投入されたことが背景にある。
ハンタウイルスは感染者数が少なく、感染地域も限られているため、製薬企業が大規模な開発投資をしにくいという現実がある。これは感染症対策における「希少疾患問題」と呼ばれる構造的な課題で、ハンタウイルスだけの話ではない。
一部の研究者がリバビリンという抗ウイルス薬のHPSへの有効性を検討しているが、明確な有効性のエビデンスはまだ確立されていない。ワクチンについても研究段階のものはあるが、実用化には至っていない。
だとすると、今できる唯一の対策は「感染しないこと」になる。感染経路を理解し、リスクのある行動を避けること。南米・北米の農村部や南極方面への渡航者はネズミの排泄物が疑われる場所での活動に細心の注意を払うこと。帰国後2〜5週間以内に発熱・筋肉痛が出た場合は渡航歴を医師に申告すること。地味だが、これが現実的にできることだ。
いや、でもこの「特効薬がない」という事実を知らずに流行地へ渡航している人は多い。それが僕には一番怖いと感じた部分だった。
よくある質問(FAQ)
Q: ハンタウイルスは日本国内でも感染する可能性がありますか?
A: 現時点での感染リスクは極めて低いと厚労省・JIHSが見解を示しています。ただし韓国・中国など近隣アジアでは類似ウイルスの感染例があり、南米・北米の流行地域への渡航後は医師への渡航歴申告が推奨されます。
Q: ハンタウイルスはコロナウイルスのように人から人へ感染しますか?
A: 基本的には感染しません。ハンタウイルスの感染源はネズミなどのげっ歯類の排泄物です。ただし南米のアンデスウイルスは例外的に人から人への感染が報告されており、この点だけは注意が必要です。
Q: MV Hondiusクルーズ船の日本人乗客は感染しているのですか?
A: 外務省は日本人1名の乗船を確認していますが、感染の有無はこの記事執筆時点(2026年5月)では未確定です。潜伏期間が最大5週間あるため、引き続き経過観察が行われています。
Q: ハンタウイルス肺症候群の治療薬やワクチンはありますか?
A: 現時点で承認された特効薬・ワクチンは存在しません。治療は人工呼吸管理やECMO(体外式膜型人工肺)などの支持療法のみで、感染予防(げっ歯類の排泄物との接触を避ける)が唯一の有効な対策です。
Q: ハンタウイルスの症状はいつ頃から出始めますか?
A: 潜伏期間は1週間から5週間で、平均は約2週間とされています。最初の症状は発熱・筋肉痛・頭痛でインフルエンザに似ており、数日後に急激な呼吸困難・肺水腫へ進行します。

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